
1946年〜
世界にとどけ。
世界の総合光学機器メーカーへ
奇跡的なスピードで復興と成長を遂げ、
さまざまな製品が日本から世界へと飛び立っていった時代。
ニコンの光学機器も、その高性能さが評価され、
世界が認める「Made in japan」の一翼を担った。
1946
1946
メガネレンズ「ポインタール」発売
1946
1946
小型カメラの名称をNikon(ニコン)に決定
旺盛な国産カメラの需要に応えるために開発が決定していた小型カメラは、当初、社名である日本光学(当時)の略称であるニッコー(Nikko)をもとに小型という意味を加えて二コレット(Nikorette)の仮称で設計が進められていた。
しかし、将来主力製品となるべき商品名としては弱いとの意見から、Nikkoをベースとして活かし、語尾に「N」をつけて男性的で口調をよくした「Nikon」(ニコン)が正式名称に決まった。
1947
1947
測量機「レベルE型」「トランシットG型」発売
戦後ニコンで初めてつくられた測量機。写真左は「レベルE型」、写真右は「トランシットG型」に改良が加えられ1949年に発売された「トランシットG2型」。


1948
1948
小型カメラ「ニコンI型」発売
1946(昭和21)年9月に設計図が完成してから2年足らず。ニコンカメラの初号機「ニコンⅠ型」は、1948年3月に産声をあげた。研究から完成への過程を通じて苦心が重ねられ、シャッターの軸受けに小型のラジアルボールベアリングを初めて使用するなど、独自の発明考案が盛り込まれた。
「ニコンⅠ型」は、発売に先行して雑誌広告が掲載されるなど、その期待は大きかった。当時、国産カメラの需要は旺盛で、供給が追いついていなかった。
発売にこぎつけたのも束の間、そこからが本当の戦いだった。設計者たちは相次ぐ苦情を真摯に受けとめ、日々改善策を練った。1949年には「ニコンM型」、1950年には「ニコンS型」と、課題を次々に克服し改良が加えられていった。以降、S2型、SP型、そして一眼レフカメラのF型へと進化を遂げていった。誠実に改善がなされ、堅牢かつ精巧に作られたカメラは、「世界のニコンカメラ」として国際的な名声を得ていくことになる。
ニコンカメラの初号機で「ニコン」の名前を初めて冠した製品。発売当初は「ニコン」として売られたが、後続のカメラと区別するため、後に、製品名称に「I型」が追加された。


1948
1948
「万能投影機一型」発売
主に社内用としてつくられていた投影検査機を、平行光線照明法などを採用し再設計した。研究用をはじめ、さまざまな検査や測定の現場で万能ぶりを発揮したため万能投影機と称された。


1950
1950
ニューヨーク・タイムズ、ニコンカメラ、ニッコールレンズの優秀性能を世界に紹介
1950年12月10日、「ニューヨーク・タイムズ」は、ニコンとニッコールの優秀さを賞賛する特集記事を掲載した。
それは、朝鮮戦争取材に特派されてきた写真雑誌「ライフ」の戦場カメラマンたちからの高い評価に基づくものだった。
厳寒の朝鮮半島北部での撮影では、他のすべてのカメラが凍り付いて作動しなかったときにも、ニコンだけが確実に動き、苛烈な現実を記録し続けた。
「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、「ニッコールは極めて精度が高く高能率で、ドイツ品よりつぶが揃っている」「過去の日本カメラは外観のみ美しく、内部は組末で性能が悪く工作が劣っていたが、ニコンは精密で、仕上げも美しい」などと報じている。
この記事がきっかけとなり、戦前にドイツ製レンズと肩を並べたニッコールは、ここで完全に世界トップレベルに到達し、「安価だが品質は粗悪だ」という、それまでの「メイド・イン・ジャパン」のイメージを一変させた。
技術立国、日本のスタートである。
1952
1952
写真文化の向上のため「ニッコールクラブ」設立
ライフの写真家たちによって高い評価と信頼が得られるようになったニッコールレンズは、世界各国の著名な写真家などに愛用されるようになった。一般のアマチュアの間でもニコン・ニッコールに対する関心が高まるなか、ニッコールレンズ愛用者相互の親善友好、国際写真団体との交歓を目的としてニッコールクラブを結成した。
設立発起人には、海外からはライフやマグナムの著名なカメラマン、国内では著名な写真家のほか、小説家、学者、映画俳優なども名を連ねた。
木村伊兵衛、土門拳、三木淳、亀倉雄策、溝口健二、高峰秀子氏などが発起人となり設立。写真は1953年から発刊されている会報誌。中央が創刊号の表紙。


1954
1954
「実体顕微鏡SM型」発売
実体顕微鏡は左右両眼で観察することで立体視が可能。「実体顕微鏡SM型」は、3段変倍系を内蔵し、変倍しても焦点が変わらず、落射照明装置も付属しているこの型は国産では当時唯一のものだった。


1957
1957
レンジファインダーカメラ「ニコンSP」発売
国産の距離計連動式レンジファインダーカメラの最高峰、伝説の銘機といわれた「ニコンSP」。
最大の特徴である全6種の交換レンズ(焦点距離 2.8・3.5・5・8.5・10.5・13.5cmレンズ)に対応する完全内蔵式ユニバーサルファインダーは、多種類の交換レンズを使用した当時のプロカメラマンから高い評価を得た。「ささやくシャッター」と評価されたほど、静粛性に優れたフォーカルプレーンシャッターは、後幕の加速装置とそのショックを吸収するサイレントブレーキ(コイル状の軸締付け力を利用したもの)方式を採用し、その作動音とショックを極めて小さくすることができた。また、モータードライブ装置(毎秒3コマの撮影可能)、暗い所でファインダーのフレームを照明するファインダーイルミネータ、アクセサリーシューに設けたフラッシュシンクロ接点など、いずれも接続コードを必要としない直結式で、システムカメラへの発展の萌芽となった。ニコン初のセルフタイマーも内蔵。
1958(昭和33)年に開催されたブリュッセル万国博覧会で、「ニコンSP」はニッコールレンズ、光学ガラスとともにグランプリを受賞した。
35mm距離計連動式レンジファインダーカメラ「ニコンSP」。




1959
1959
一眼レフカメラ「ニコンF」発売
ニコンの光学・精密技術を結集した「ニコンF」は国内外で大きな反響を呼び、1973(昭和48)年までの15年間にわたって生産され、ニコンとニッコールのブランドを揺るぎないものにした。
新たに開発されたのはミラーボックスとペンタプリズムおよびバヨネットなどの主要部分で、あとはSPと同じといってもよかった。しかし、ミラーボックスとペンタプリズム機構の開発では、ミラーとレンズ絞りが自動的に撮影後瞬時に開放状態に復帰する機構にする必要があるなど、重要な技術的障壁を越えなければならなかった。
バヨネットマウン卜はステンレス材で、望遠レンズの重量に十分耐えられるものにした。内径も将来を見越して大口径比レンズの使用可能な44mm⌀(ニコンS用は34mm⌀)を採用した。これが「ニコンFマウント」であり、最新のデジタル一眼レフカメラにも採用され、半世紀以上にわたり継承されている。これは、35ミリ判一眼レフカメラ用の独自設計のレンズマウントとしては世界最長である。
「ニコンF」は、実際にフィルムに写る像をファインダーで見ることができる一眼レフ式の特徴を最大限に活かし、ファインダーの視野率を100%にした。シャッター幕は、チタン材(厚さ0.02mm)を採用。シャッタースピードだけではなく、絞りも露出計ニコンメーターと結びつく完全連動方式を実現した。
ニコン初のレンズ交換式一眼レフカメラ。高級一眼レフカメラとしての地位を築いた。


1962
1962
超高解像力レンズ「ウルトラマイクロ・ニッコール」発売
戦後の日本では、かさばる文書をマイクロフィルムに縮小して焼き付けて保存するために、米国の最先端マイクロファイルシステムを導入していたが、アルファベットと比べて漢字は画数が多く、導入されたレンズでは解像力が不十分であった。そこで1956(昭和31)年に高解像度の「マイクロニッコール」を開発すると、印刷会社や電気関係メーカーから、高解像度レンズに関する問い合わせが相次いだ。電子部品の製造に必要な回路原版を作るためには、もっと解像力の高いレンズが求められていた。
こうして1962年8月「ウルトラマイクロ・ニッコール」が開発された。2年後の1964年には、当時世界最高の解像力を誇るレンズの開発に成功。その解像力は、白と黒が対になったストライプ線が、1ミリの中で1,260本も認識できるほど。330ページあるイギリスの小説を、12.6×13.2mmのマイクロフィルムに縮写することに成功した。性能を高く評価された「ウルトラマイクロ・ニッコール」は、国内はもちろん世界市場も席巻した。
「ウルトラマイクロ・ニッコール」は、「史上最も精密な機械」と呼ばれることになる半導体露光装置の核となる技術として受け継がれていく。
フォトリソグラフィー工程に必要なフォトマスク製作用に開発、当時世界最高の解像力を実現したレンズ。




1963
1963
オールウェザーカメラ「ニコノス」発売
高度の耐水・耐圧・耐蝕(しょく)性を備え、水陸両用の「オールウェザーカメラ」として位置づけられたカメラ。


1964
1964
ルーリングエンジン1号機納品
超精密で製作が困難なため、日本では1960年代まで「幻のマシン」と呼ばれていたルーリングエンジン(回折格子刻線機)の国産第1号機となった。


1968
1968
フォトギャラリー「銀座ニコンサロン」開設
企業イメージの浸透と写真文化の向上に貢献することを目的に開設。第1回展示会は「木村伊兵衛の眼」。(1974年「大阪ニコンサロン」開設)


1968
「光電式ロータリーエンコーダRIE型」発売
1969
1969
第1回ニコン フォトコンテスト・インターナショナル(現 ニコン フォトコンテスト)作品募集
「ニコン フォトコンテスト・インターナショナル」は、「世界中の写真愛好家が、プロフェッショナルとアマチュアの枠を超えて交流できる場を提供し、写真文化の発展に貢献すること」を目的とする国際写真コンテスト。第1回のコンテストには世界37カ国から2万1000点を超える応募作品が寄せられた。1974(昭和49)年からニコンカレンダーの写真は、この応募作品の中から選定している。第34回にあたる2012(平成24)年に、歴史あるコンテストを現代の手法や文脈に適合させ、「ニコン フォトコンテスト」と改称。新しい尺度を見出し、新しい機会を創出するために進化を続けている。
1971
1971
アポロ15号に「ニコンフォトミックFTN」が搭載される
1971(昭和46)年1月、ニコンはNASA(アメリカ航空宇宙局)からの依頼に応えてある契約を結んだ。それは、その年の7月に打ち上げが予定されていた、月面着陸・探査を目的とするアポロ15号から、翌年打ち上げ予定のアポロ17号までに搭載する記録用カメラの供給に関するものであった。開発のベースには、1968年に発売されていた「ニコンフォトミックFTN」が選ばれた。
宇宙という極限の環境でも確実にカメラが機能するように要求されたNASAの仕様。それは、潤滑油などの使用材料をNASA指定の特殊なものとすることや、高い耐衝撃性などであった。さらに、外装は太陽光線の反射によるトラブルを起こさないよう黒のツヤ消しとされた。装着レンズは55mm F1.2で、このレンズも黒くツヤ消し塗装が施された。そして6月にはすべての要求を満たした9台のカメラをNASAに納入。この製品は翌月に打ち上げられたアポロ15号とともに月へ向かった。NASA仕様の「ニコンフォトミックFTN」は、その後、宇宙飛行士3名が長期間にわたって居住可能な宇宙実験室、スカイラブにも特殊カメラシステムとして採用された。目的は、地球のオゾン層やオーロラを撮影することであった。
「ニコンフォトミックFTN」をベースにしているが、潤滑油などの使用材料や製品仕様は、NASA指定の特殊なものだった。


1971
1971
精密光波測距装置「MND-2」発売
三菱電機との共同開発により完成。国産で初めて光波による距離測定を可能にした。


1971
1971
「ニコンF2」発売
交換レンズ、アクセサリーなどは「F」との互換性を保ちながら、操作性、速写性、自動化を目指した。プロの使用に耐える高速1/2000秒シャッター搭載、セルフタイマーを利用した2〜10秒のスローシャッター、大型ミラーの採用、裏ぶたの蝶番開閉式の採用、シャッターボタン位置の変更など細部にわたり機能向上がなされた。


1971
1971
「ED(Extra-Low Dispersion)ガラス」の開発
「EDガラス」は、色収差を補正し、鮮明な画像を実現する特殊分散ガラスである。
レンズの色収差は、通常2つの波長による焦点が一致するように補正されるが、望遠レンズ、特にテレタイプの超望遠レンズはこの2波長以外の波長による焦点とのずれの量(2次スペクトル)が大きくなり、色収差が増すことが、描写性能を低下させる原因になっていた。
これを解決するには、低分散ガラスを使用することが有効な結果をもたらすことを確認し、製造にとりかかった。1971(昭和46)年12月、新種光学ガラスPC102「EDガラス」を開発。連続溶解によって他社に先がけて大型化・量産化した。
1972年1月、報道機関向けに「NIKKOR‒H 300mm F2.8」が発売され、札幌五輪のさまざまな競技の撮影に使われた。PC102は、このレンズの初期生産品には間に合わなかったものの、F用300mm以上の望遠レンズやズームレンズに用いられ、レンズ性能を向上させた。
現在「EDガラス」は、交換レンズはもとより、双眼鏡、フィールドスコープにも採用され、さらに派生したガラスは半導体露光装置の投影レンズに用いられ、ニコン製品に不可欠な存在となっている。
「EDガラス」を初めて使用した「NIKKOR-H 300mm F2.8」。


1971
1971
ルーリングエンジン2号機の完成
ルーリングエンジンは、回折格子を製造するための工作機械で「回折格子刻線機」のことである。
1964(昭和39)年、文部省(現 文部科学省)のプロジェクトで、ニコンが製作を担当したルーリングエンジンの国産第1号機が完成した。しかし、それは精度や安定性において実用レベルにはいたらなかった。1960年代後半になっても、日本ではルーリングエンジンは「幻のマシン」だった。
この頃、ニコンでは分光分析機を新事業として検討していた。回折格子はガラスや鏡面に細かい溝を設け、そこを通過する光を回折、干渉させてスペクトルを得る光学部品で、分光分析機のキーパーツである。社内においてルーリングエンジンの必要性が認識されるようになっていた。
ニコンは、ルーリングエンジン2号機の開発を1967年にスタート。予算や納期を考慮し、基本的な機械部分を外注したものの、レーザー干渉計を含むガラス基板搭載ステージの制御システムの開発はニコンで進めた。また、ダイヤモンドカッターの研磨技術、回折格子の量産に向けたレプリカ製作技術などの開発にも取り組んだ。1971年、ルーリングエンジン2号機は完成し、分光分析機「ニコン・モノクロメータG-250」に搭載する2インチ角の回折格子の量産が開始された。「幻のマシン」は現実のものとなった。
ルーリングエンジン2号機の実現は、ニコンが半導体露光装置を開発する大きなきっかけとなった。
ルーリングエンジン2号機。


1976
1976
顕微鏡「バイオフォト」「メタフォト」発売
世界で初めてCF方式による顕微鏡対物レンズの製品化に成功。顕微鏡業界では「100年ぶりの技術革新」といわれた。写真はバイオフォト。


1977
1977
「ニコンF2チタンウエムラスペシャル」の開発
植村直己は、日本を代表する冒険家である。日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂、北極圏12,000キロ犬ぞり単独走破、犬ぞり単独行による北極点到達成功など、数々の功績によって、1984(昭和59)年、国民栄誉賞を受賞した。
1976年5月、北極圏12,000キロを犬ぞり単独行で走破し、アラスカに到着した植村を報道フォトグラファーが出迎えた。その時、植村に向けられたカメラのほとんどがニコンだった。過酷な環境で他社のカメラは破損し、ほとんど記録を残すことができなかったのである。
1977年6月、植村はニコンに、北極点犬ぞり単独行に用いるカメラを要望する。そのカメラは極限の低温と衝撃に耐えるものでなければならない。そのため、駆動系には特殊耐寒オイルを塗布し、シャッタースピードの精度はマイナス50℃前後で適正になるように調整した。カメラの上部、底部、ペンタ部、エプロン部のカバーをチタン製に換装した。当時、カメラ部品をチタンで製造できるのはニコンだけだった。植村が犬ぞりで使用するトランクに試作品を入れて、大井製作所の階段から転がり落として衝撃テストを行った。
こうして、1977年12月、世界初のチタン外装の一眼レフカメラとなった「ニコンF2チタンウエムラスペシャル」3台が完成。植村は翌年の北極点犬ぞり単独行とグリーンランド縦断でそのうち2台を使用し、6カ月間の冒険を約180本のフィルムに焼き付けた。
さらに、1982年に南極大陸3,000キロの犬ぞり単独行と同大陸最高峰ビンソン・マシフの登頂のため「ニコンF3」を基本にした「ニコンF3チタンウエムラスペシャル」を製作したが、この年の3月から始まったフォークランド紛争により中止となり、実際の冒険に使用されることはなかった。
(取材協力:植村冒険館、植村直己冒険館)
植村直己のセルフタイマーによる自写像。脚にカメラの影が映っている。
画像提供:文藝春秋

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