
ウルトラマイクロ・ニッコール:産業用レンズが築いた半導体大国の礎
No.9|1964|「極細」をみる
1964年、極限の解像力を追求した1本のレンズが誕生しました。
特殊な産業用途から始まったこのレンズ製造技術は、
やがて日本が「半導体大国」と呼ばれる一時代の礎を築くことになります。
小さな世界を見つめたレンズが、なぜ産業界全体を変える力を持ったのでしょうか。
1964年11月、1本のレンズが写真の常識を覆した。1,260本/mmという、当時の限界を遥かに超える解像力を実現した「ウルトラマイクロ・ニッコール29.5mm F1.2」。それまで写真レンズの解像力は300本/mm程度が限界とされてきたが、このレンズは一気にその4倍以上の性能を達成した。
このレンズを用いて、350ページに及ぶ書籍の全ページを当時の10円切手(22.5×18.5mm)大の中に縮写し、さらに同一レンズで原本同様の解像度を保ったまま拡大復元することに成功した。この成果は1964年9月の国際光学会議で発表され、世界中の研究者や技術者たちの間に大きな反響を巻き起こすことになる。

ニッチな需要から始まった挑戦
しかし、このレンズの開発は、こうした華々しい技術実証のためではなかった。始まりは、1960年頃から寄せられるようになった印刷会社や電機メーカーからの、ごく限定的な問い合わせだった。
当時、半導体の製作に必要なフォトマスク(回路の写真原版)を、写真製版技術に長けた大手印刷会社が製造するケースが増えていた。しかし既存の製版用レンズでは、電子業界が求める精度に応えきれない。そのため、より高い解像力を持つレンズが望まれていたのである。
1961年3月、ニコンはこの極めて特殊な用途に向けた高解像力レンズの開発に着手した。フォトマスク製作という、一般的なカメラレンズとは全く異なる世界への挑戦だった。高解像力を得るにはF値を小さくする、つまりレンズの大口径比化が必要だったが、当時の技術では大口径比レンズの収差補正は困難で、実現は不可能とさえいわれていた。
転機となったのが、ある研究者からの助言だった。「単色光を使えば、諸収差の補正は可能なはず」という言葉が、開発チームの固定観念を打ち破った。水銀ランプのe線(546nm)単色光に特化することで、色収差という最大の障害を取り除く。限定的な用途に特化したからこそ、極限の性能が見えてきたのである。

世界が注目した技術
1962年8月に完成した105mm F2.8の第1号機は400本/mmの解像力を達成した。さらに「1,000本/mm以上」という要求に応えるべく開発された29.5mm F1.2は、ついに1,260本/mmという世界最高の解像力を実現したのだった。
このレンズが発表されると、当初は国内のフォトマスク製作という限定的な用途で開発されたレンズだったものの、その卓越した性能は瞬く間に業界の注目を集めた。
だが、真に驚くべき展開は海の向こうからやってきた。当時半導体製造で世界をリードしていたアメリカの半導体製造装置メーカーから、ニコンに対してさらに新しいレンズの要望が次々ともたらされるようになった。ニッチな需要に応えるため開発された技術が、いつの間にか世界最先端のプレイヤーから注目されるようになっていたのである。

技術が導く。想像以上の未来
ウルトラマイクロ・ニッコールで培われた技術は、やがてニコンが半導体製造装置事業に進出する基盤となった。1969年のプロジェクションマスクプリンタ開発、そして1980年の半導体露光装置実用化などへと続く道のりは、フォトマスク製作という用途から始まったこのレンズが切り開いたものだった。もっとも、こうした展開がもたらす産業的インパクトを、当時どれほどの人が予想できていただろうか。
技術というものは、しばしば開発者の意図を超えて展開していく。限られた目的のために極限まで磨かれた技術が、思いもよらない分野で新たな可能性を切り開く。ウルトラマイクロ・ニッコールの物語は、技術開発における「想定外」の力を示している。
1本のレンズから始まった技術の波紋は、やがて私たちの身の回りにあるパソコンやスマートフォンなどの中にまで到達した。技術者が描く設計図の先には、誰にも予想できない未来が広がっている。
コンテンツ監修:『WIRED』日本版 (文: 水谷 秀人 / 写真: 加藤 純平 / 編集:矢代 真也)