ニコンフォトミックFTN:宇宙という究極の撮影現場へ
No.10|1971|「極限」をみる
1971年、人類史上初めて月面で自動車を走らせたアポロ15号。
そのミッションに同行したのは、
ニコンフォトミックFTNをベースとした特別仕様のカメラでした。
地球から38万キロ離れた過酷な環境で、確実に記録を残すために
求められた技術革新とものづくりへの執念を追います。
打ち上げ時の強い振動と衝撃、真空、摂氏マイナス100度からプラス120度という激しい温度変化、そして強烈な放射線—。宇宙という究極の撮影現場では、その全てが機材を容赦なく襲う。修理も部品交換もできない環境で、カメラは一度の不調も許されない。
1965年、NASAからニコンに届いたのは、220度という超広角レンズの開発依頼だった。この依頼に応えたフィッシュアイニッコール 6mm f/5.6の納入を機に、ニコンの技術力はNASAに認知されることとなる。そして1971年1月、アポロ15号に搭載するカメラとして、ニコンフォトミックFTNが正式に選定された。
このカメラがNASAの過酷なミッションで選ばれた背景には、機動性を重視したニコンの35mmフィルムのカメラ・システムの実績と、市販用一眼レフカメラとして信頼性に定評のあったニコンFの存在があったという。ニコンフォトミックFTNはそのニコンFをベースとしており、これまでに築いた評価が宇宙という極限環境での採用につながったのだ。
地上の常識を脱ぎ捨てて
宇宙仕様への改造で最も困難を極めたのは、使用材料の全面的な見直しだった。地上では何の問題もないゴムやプラスチック、潤滑油といった素材が、真空中ではすぐに劣化したり蒸発したりして、カメラの動作を阻害する。全てを金属材料か、NASA指定の特殊素材に置き換えなければならない。
ボディーの人工皮革は特殊な金属板に変更。その表面には、太陽光の反射による船内メーターへの影響や、船窓からの撮影時の写り込みを防止するため、完全なマットブラック塗装が施された。ニコンのロゴさえも、必要最小限まで塗りつぶされた。
電気系統の信頼性確保も重要な課題だった。宇宙船内での火災は致命的な事故に繋がるため、ハンダ付けはNASAハンダスクール修了者による厳格な指導のもと、最大限の確実性を最小限のハンダ量で実現しなければならなかった。回路基板には全て絶縁保護コーティングが施され、振動による接触不良への対策が徹底された。
宇宙服でも確実な操作を実現
技術面の改良と同じくらい重要視されたのは、実際の使用環境への配慮だった。宇宙飛行士は分厚い宇宙服のグローブを着用しており、地上で素手で行なうような繊細な操作は不可能に近い。
この課題を解決するため、レンズには特別な突起が追加された。フォーカスリングに取り付けた「2本のツノ」を回してピント合わせを行なう独特の操作系が採用された。巻き上げレバーには大きな指当てが設けられ、巻き戻しノブも大型化。枚数計の窓と文字も判読しやすいよう大きく設計された。
こうした改良により、宇宙服を着用した状態でも確実な操作が可能となった。地上とはまったく異なる環境に最適化するため、従来の常識にとらわれない設計思想への転換が求められたのだ。
短期決戦に懸けた手と知恵
1971年1月の契約締結から6月の納入まで、わずか5か月という短納期での開発は、ニコンの技術力を結集した総力戦となった。社内に結成された特別チーム「Sチーム」は、通常の開発プロセスを大幅に短縮し、設計と製造を並行して進めた。
最も厳格だったのは品質基準だ。シャッター精度は通常のニコン基準よりもさらに厳しく設定され、耐久性テストも大幅に強化された。放射線試験、真空中での超高温・超低温試験、湿度試験、加速度試験など、地上では想定されない過酷な条件下での動作確認が求められた。
6月、55mm f/1.2レンズ付きのカメラ9台が完成し、NASAの要求を完全に満たした製品として納入された。その後、8月の帰還時に、アポロ15号は月面での史上初の自動車走行という偉業とともに、ニコンフォトミックFTNによる貴重な記録を地球に持ち帰った。
制約こそが革新の源
宇宙仕様のニコンフォトミックFTN開発で最も印象的なのは、極限の制約が逆に革新的な解決策を生み出したことだ。使える材料の制限、操作性の制約、絶対的な信頼性の要求。これら全てが、従来の発想を根本から覆す技術革新を促した。
地上では当たり前の素材選択が、宇宙ではミッションの成否を左右する重大な要因となる。ハンダ付けひとつとっても、NASA基準の厳格な手法を習得・実践することにより、電気系統の信頼性は飛躍的に向上した。
こうした「制約下での技術革新」は、1980年のF3 NASA仕様での自動露出機能実現にも受け継がれた。宇宙という過酷な環境での自動化という、さらに高いハードルが、より洗練された技術を生み出していく。
技術者にとって制約は障壁ではなく、創造性を引き出すカタリストなのだ。ニコンフォトミックFTNの宇宙での成功は、制約があるからこそ人間の技術力は進歩するという、ものづくりの本質を証明した瞬間でもあった。最も厳しい条件を課された時、技術者の真の力が発揮される。それは宇宙開発に限らず、あらゆるものづくりに通じる普遍的な真理かもしれない。
コンテンツ監修:『WIRED』日本版 (文: 水谷 秀人 / 写真: 加藤 純平 / 編集:矢代 真也)